お祭り好きのネットオタクが映画『電車男』を熱く語るよ

電車男の映画見た。思ってたよりよかった。特に前半部分なんかは傑作じゃないかと思った。しかし後半になるにつれてグダグダ。たぶん、「電車男掲示板の人々(2ちゃんねらー)」の物語から、「電車男エルメス(ヒロイン)」の物語になってしまうからだろう。

以下、読んだ(見た)事を前提にネタバレとか気にせず書きます。


電車男』の物語が、映画の冒頭に提示されたような「A TRUE LOVE STORY」であるとするなら、この新しい物語の描くべきLOVEは「電車男2ちゃんねらー」のLOVEだ。だが映画は、ネットをあくまで恋愛物語の一小道具としてしか見ない。

電車男』とは「悪名高い匿名掲示板の見知らぬ人がどんな顔で書いているか分からないアドバイスを頼りに、果敢にミッションを遂行する電車男のネットに対する信頼」と「自分と何の関係もないミッションをおもしろ半分ながら成功に導くネットの向こうの人たちの無償の愛」の物語である。

「女の子から高価なお礼をもらったんだけどどうしたらいいでしょう」と電車男掲示板に書く。掲示板を読んだ人は「すぐ電話しろ」「お返しに食事に誘え」と書き込む。それは「自分なら当然そうするから」ではない。自分はそうできないからだ。例えアドバイスをもらったとしても。2ちゃんねるで言われたからやりましたって( ´,_ゝ`)プ。

しかし電車男は実際に電話してしまう。その無垢な無謀とも言える信頼と勇気に、2ちゃんねらーは驚き呆れ賞賛しつつ、頼られているという優越感も同時に持つ。彼らの複雑な気持ちを一言で表すなら「おもちゃキター」である。

電車男2ちゃんねらーの「アドバイス」を次々に実践し報告する。それによって掲示板の熱気が(雑音や冷やかしも含めて)どんどん上がっていく。掲示板の書き込みは多くの人によってなされているので、読者(視聴者)の電車男に対する気持ちが冷めていようが入り込んでいようがどの位置にあろうとも、大抵はそれを代弁する書き込みを発見することが可能だ。そしてその書き込みへのはっとするような返信。読者→2ちゃんねらーへの感情移入はこのようにとても大きな間口を持ってなされる。それに答えて行われる電車男の状況報告が、結果を待ち望む気持ちを生み、2ちゃんねらー電車男への感情移入となり、いつかミッションの成功(エルメス攻略)を願うようになっていく。

この実に幅広い温度層でできている電車男を中心とした2ちゃんねらーの感情の渦=祭りは、失敗への期待や自己顕示欲やただの冷やかしや興味本位で覆われているのだけれど、他人の幸福のために動いているという意味において愛である。この奇妙な愛は、しかし歪んでいるが故に、愛などという言葉は嘲笑しながらしか口にできない自分の中にも眠っているかもしれない、普遍の愛ともいえる。この歪み方、様々な温度差の反応の層こそが、多様化した現代においても読者にリアリティーを与える部分である。そしてその中にあるのは、「あなたもいい人になれる」という気持ちよさ、否定されながらも期待されている普遍的な欲求である。そして電車男の中に見える、匿名でないと赤裸々な相談ができない臆病さとそれ故の孤独、今の自分を変えたいという願望もまた、現代が抱える悩みであり感情移入しやすい(電車男と自分を置き換えやすい)要素であり「自分もいつか大勢の人々に助けてもらい成功できるかもしれない」という甘すぎる期待を抱かせ、祭りを盛り上げるのだ。

と思うんだけど、映画の電車男はこの祭りを前半部分でしか表してくれない。後半、物語はどんどん電車男エルメスにシフトし、あろうことかネットから離れろと示唆し出す。

電車男はネットに頼りすぎたせいでエルメスと気まずくなり、その失敗をネットではなく自分の足で取り返そうとする。そんな描かれ方をしてもネットの人々の熱気は冷めずラスト近くで実に熱く電車男に勇気を訴えかけるのだ。が、その時点では既に僕の気持ちは画面の中の2ちゃんねらーの誰よりも冷めていた。「自分より冷めた2ちゃんねらー→自分→自分よりアツイ2ちゃんねらー電車男」という幅広い温度差の中に自分の位置を見つけ、安心して「お祭り」の中に身を投じることのできる快楽こそが物語としての『電車男』の快楽のはずなのに、「みんな何をそんなに盛り上がっているの?」と感じさせてしまっては、失敗だろう。

なぜそのような作りになっているのかといえば、制作者にはネットの中の熱気(や、その正体)について描くつもりが無いからだ。映画の描く熱気はネットの中にあるものではない。あくまで電車男から(ネットには接しない)エルメスに向けられた視線の中にこそあり、ネットはただその余熱で熱くなっているだけだ。

恋愛物語として『電車男』を見た場合の物語の平坦さには制作者も気づいているようで、電車男に苦しみを用意することでドラマを盛り上げようとする。しかし苦難をドラマチックに乗り越えさせるにはエルメスの人物描写が薄っぺらすぎるだろう。元々「原作」ではエルメス電車男(恋するモテないオタク)の目を通してみた「理想の女性」としてしか描かれない。映画ではそれが特に人間的に肉付けされずに、けれども物語の中心に登場する。「2ちゃんねらー電車男の物語」である場合はそれで十分に機能したが、「電車男エルメスの物語」にするには人物としての魅力が足りず、恋の成就を共に願うという共感は生まれづらい。

この映画の視点がネットの外側にあることは、ラスト、2ちゃんねらーの側に用意された物語の解決の場面を通じて決定的に描かれる。引きこもりはパソコンから離れて外出し、冷めた夫婦はパソコンを閉じて談笑し、オタク達はネットカフェから出ておしゃれをする。ネットの中の人々の物語が、ネットから離れることによって成就されるのだ。制作者は「ネットの中のドラマなど誰が興味を持ってみるだろう」と思っているのだろうか。エンドロール後、別の男女で繰り返される電車男エルメスの出会い。それが伝えるメッセージはつまり「これは勇気を出して出会いを現実のものとした男の物語です。あなたにもこんな出会いがあるかもしれませんよ」

だがそんなまとめでは『電車男』は「物語としては平凡すぎる上にリアリティーを獲得できない恋愛物語」にしかならない。何度も繰り返すが『電車男』はネットの祭りについての物語であり2ちゃんねらー電車男の物語であるからこそ斬新でおもしろいのだから。

ラスト部分をネットの物語として正しく作り直すなら、別の男(または女)が掲示板に「気になる人からモノをもらったんだけどどうすればいい?」と助けを求め、人々が「新しいおもちゃキター」と群がっていく、そんな場面であるべきだろう。「次はあなたも祭りに参加できるかもしれませんよ」


とはいえ、前半部分は良くできている。多少説明不足はあれどネットの雰囲気がここまでうまく再現されるとは思っていなかった。

テレビドラマの方は見てないんだけどどうなんだろう。