「反戦デモ」に対する違和感に対する違和感

手短に言えば、こんな感じである。「結局のところ、手段はどうであれ、ある特定の価値観を『排除』しようとしている点では、戦争も、反戦デモも、全く変わらないではないか。」と。

違った視点で眺めてみよう!:「反戦デモ」に対する違和感

 でもそう、何かを手に入れるために何かを手放すのは仕方のないことではないのかな、と。もちろん両方取れるような選択肢を見つけられれば一番いいのだろうけれど、そうそううまい話が落ちているわけはなく。こういう、すべてを手に入れたい欲求というか悩みは思考の迷宮とかそういうので、大人になるために俺はいろんなモノを切り捨ててきたぜ、とかそういう選択しか僕たちはできないのじゃないのか。「排除しないことを強要することは”排除したい意志”を排除することだ」なんて言い出したら結局何もできないのじゃなくなってしまう。じゃあ何もしなくてもいいじゃないか、というのもあるし僕は何もしない人なのだけれど、何かをしたいから悩むわけで、ここで否定されているのはすべての「行動」ではないのか。

ひょっとすると「究極の平和」とは「悩み続けられること」なのかもしれない。

違った視点で眺めてみよう!

 悩み続けられる平和な国日本に生まれたことを喜びなさい、とかそういうことなら分からないでもないのだけれどたぶん違う。悩んでいることに満足できればそれでいいのだろうけれど、結果を求めるのであればある時点で悩みを振り払って(一方を切り捨てて)何らかの決断を下すしかないわけで、つまり何かを決めて断つわけで。無限の可能性があるのだろうけれども、天啓でも下らない限り計算量爆発の中に時間は有限で自分の望む結果(世界平和と全人類の幸福)を達成するためには、やはり何かを切り捨てる拳を振るうしかないのだ。
 つまりまあ、そう、相手の痛みに涙を流しなら拳を振るうとか、男は悲しみの数だけ強くなれるとか、『北斗の拳』でも読んでラオウの涙の意味を知れと。いや、詳しくは覚えてないんだけど何となくそんな話だった気がする。
(ネタもと:圏外からのひとこと(2004-08-02))(ネタもと:はてなダイアリー - 日日ノ日キ