Winny開発者を逮捕

 人気映画やヒット曲などのデータを交換するパソコンのファイル共有ソフトWinny」(ウィニー)を開発することで、映画や音楽の違法コピーを容易にしたとして、京都府警ハイテク犯罪対策室と五条署は10日朝にも、著作権法違反ほう助の疑いで、東京都在住の30代の東京大助手に任意同行を求め、逮捕する方針を固めた。
 包丁は野菜を刻むこともできるし、人を傷つけることもできる。罪に問われるのは、人を殺傷した実行行為者だけだ。拳銃は、人を殺傷する以外に目的を持たず、日本では所持も製造も禁止されている。京都府警が今回、ウィニーという通信ソフトの開発者を著作権法違反の「ほう助」で立件に踏み切るのは、同ソフトをネット社会における「拳銃」の開発に等しい、と判断したといえるだろう。

京都新聞 電子版: Winny開発者を逮捕へ 京都府警、30代東大助手 国内初

 匿名性を必要とする側は常に後ろ暗い。匿名性が必要なのは、人に言えないことを言い、人に見せられない事を行いたいからだ。Winny は「ファイルを交換することを知られたくない(交換されているファイルを知られてはまずい)人たちが利用する」ので、匿名性を必要とする。
 「匿名性の技術」とはつまり、「名乗りたくない行い≒悪いこと」に使われて当たり前の技術」である。もちろん、「悪いこと」に使われるためだけに生まれてくるわけではない。だがそれは「悪いこと」を仕様としている人たちを引きつける。また、「名乗れないこと」と「悪いこと」は完全に同一ではない。だが、「名乗りたくない行い」と「悪いこと」という言葉の重なり具合と同じ程度にそれは重なる。
 匿名性は反権力のための技術であり、権力者=閲覧者は常にそれを取り締まろうとする。


 「匿名性」が「よいこと」に使われる例は滅多にない。現在Winnyが合法的に使われている例はほぼすべて、Winnyほどの匿名性がない技術で代替可能だ。
 もし「匿名性」が「よいこと」に使われている例を上げられても、こう反論できるだろう。「それは過去にこの世を支配していた悪のせいであり、もう必要ないはずだ」「それは匿名性が無くてもできるように世界を改善すべきだ、さあ名乗りを上げたまえ」
 なぜなら僕は、現在の検閲者=権力者とかなりの部分に置いて同じ価値観を共有し(つまり今、世界は悪に支配されていないと考えており)、匿名性を必要とするほど弱くないからだ。


 だがもし、あなたが、「(匿名性を補助するWinnyのような技術は)犯罪を助長するだけだからいらない」と言い切るのであれば、僕は、あなたが価値観に対する不安を考慮していないか、あるいは考慮し切れていないか、あるいはあきらめているか、だと判断するだろう。
 僕はそうではない。僕にはその不安が常にある。


 そもそも匿名性に対する期待は、規制・検閲する側に対する不安から生まれてくるものである。規制・検閲する側、世間・権力者=検閲者を、信用できない、あるいは未来において信用できなくなるかもしれないという不安。
 「検閲者の価値観と自分の価値観が(将来的に)違うようになるかもしれない」という不安だ。たとえば「検閲者が悪くなるかもしれない」という不安(たとえばナチ・秘密警察・憲兵などとして伝え聞くその手の話はいくらでもある)、あるいは「自分が将来悪いことをしたくなるかもしれない」という不安。
 それは「何が悪か」という問題でもあり、多くの場合「強いか弱いか」という問題である。
 それが解消されない限り、誰にも監視されないための技術は常に確保しておきたい、と考えている。それが悪に使われるための技術だとしても。


 でも結局は経済的な問題、つまりその技術のもたらす利益と被害、取り締まるか利用するか「どちらが特か」という問題で決着するのな。誰が判断するんかな。判断する人になりたいな。