ブログのブーム

そうか、ブログのブーム(繋がりやすいシステムによる検索上位にくるようなSEOされた駄文ページの量産)というのは、正確な情報を隠そうとする何者かの陰謀の経過なのだな。
本当に正確な情報というのはもはや情報ではなくて事象そのものなのだが(事件は会議室で起きてるんじゃない!)、人はGoogleでヒットした上位数件の記事で物事を判断する。時間がないのだ(お金もないし)。偉大なるマスコミ様が情報源を独占していた時期には記事は専門家(プロとは素人が多くの時間をかけてやる仕事を短時間でできる人)によってフィルタリングされたわずかな記事を読めばわずかな時間で比較的正確な行動を選択することができた。その習慣をそのままに、今はテレビや新聞以上にネット上の検証されていない記事(時間がないのだ)を読んで判断する。
もはや民衆に「真実」を提供する役目だったマスコミは世俗の垢に汚れその輝きは失せてしまった。民衆は真実がコントロールされていることに気づいたようだ。次に真実を提供できるものは何だ? より輝いて見えて、役に立たない真実。賢い人たちは考える。そうだ、彼ら自身に彼らの求める真実を語らせればいいのだ。こうしてインターネットは解放され、誰もが情報を発信できるようになった。しかしまだ面白さも真実みも足りない、そう考えた彼らはより簡単に情報を提供できるコンテンツマネジメントシステムを開発する。繋がりやすいシステムによる検索上位にくるようなSEOされた駄文ページの量産。
ブログシステムはコミュニティーと称されるように似た価値観を持つもの同士が集まりやすい。価値観の似たもの同士でのコミュニティーでは情報のフィルタリングは何によって行われるか? 情報のフィルタリングは正確さや社会的価値の判断ではなく、情=面白さによって行われる。コミュニティーと称されるようにそれは人の集まりであるから純粋な情報の価値によって切り捨てる訳にはいかず(よくコメントしてくれる人のページをアンテナからはずすの躊躇するでしょ)人情コミュニティーを形成する。その批評に対する「自分にとって面白い情報だから価値がある」という反論はすなわち正確さや社会的価値の判断からの離反を意味する。「ある意味真実」な言論はネット上で受け入れられやすいが、それは「すべての意味で真実」とはなり得ないからそのように呼ばれるのだが、もはやそのようなことは気にしない。
通常出会う人々が形成する現実(近接・肉体)社会とは別の社会で生産される、現実とは少しずれた情報(世間がどう思おうと自分はこう思うという意見)が大量に与えられあたかも普遍的な真実であるかのように輝き出せば、現実社会の価値は相対的に薄れる。「僕」の所属する場所はどちらか? という問いは、すなわちどちらに所属した方が得か、と言う問いだ。引きこもりとはこうして現実よりもネットワークに価値を置くようになった最初の世代だ。
ブログシステム(繋がりやすいシステムによる検索上位にくるようなSEOされた駄文ページの量産)は、現実とネットでの真実の二分化、さらにネット内での様々な価値観の多様化という状況を打破する。まずそれは見つかりやすく繋がりやすい性質からいくつもに分断されていたネットでの価値観を統一する。次にIT革命によってネットでの情報取得が当然となった「現実」社会の要請(時間がないしお金もないのだ)が、ネット世界での普遍的な真実(Googleランキング上位)をそのままに現実社会の真実として受け入れるようになる。
なに? それでは物事がうまく進まない? いったい、現実社会がなんだっていうんだ。こんなに役に立つ偉大なるGoogle様がそうおっしゃってるんだから間違いない。Googleが信用できない? たしかにGoogleは独占企業だが、この検索結果に出てくる人たちの存在はそれ以上に確かだし、彼は信頼できる。彼からトラックバックを受けたことがある私が言うんだから間違いない。だいたい役に立たないなんて言うんなら、おまえが真実を提供すればいいじゃないか→よーし、やるぞー!
面白い情報で人々を幻惑し、正確な情報を隠し、世界を引きこもりの面白くて役に立たない真実で汚染し、何もできなくなった我々から現実社会を独占しようとする、賢い人々のスケジュールは特に問題なく進行している(事件は会議室で起きてるんじゃない!)。