役に立つ

よくある教義として、あらゆるものに役割があるという教えがある。世に在るものはすべからく役割を果たすために生まれ、役に立っている、と考える教えである。これは間違っている。多くのものは、たまたまそうなったからそのように利用されているだけである。
たとえば「蚊の存在意義を教えてください」という質問がある。
役目を説明することは可能だ。存在する以上何らかの影響を与えざるを得ないし、それ故に世界がその姿になっているのであるから、それは世界をその姿にさせるためのキー、つまり現状維持の役割を説明できる。
だが、もしそれが存在しなくても、世界は存在する。それは、それが存在するが故に形作られている今の世界と同じではないが、その違いは計算不可能なほどに複雑であるので、それ故にその存在が不幸や幸福の理由であるとは言えない。
たとえば蚊の存在意義としてボウフラの水質浄化効果を挙げるとする。だがそれは、たまたまボウフラがいるが故にその水質がその状態に留まっているという理由の説明でしかない。蚊が存在しない世界では、ボウフラがいない故に発生した別の何かが浄化を行っておりそれはさらに優れた浄化能力を持っているかもしれないし、あるいはその部分の水質が浄化されないが故に別のところで何らかの効果が発揮されているかもしれない。
なしろあらゆるものに役割があるのだから、それが存在しないが故の役割というのも当然ある。


つまりここで言いたいのは、あなたが存在するのは在る事柄に役に立つからである、と感じているその事柄は、あなたが存在するが故に現状に留まっているのであり、あなたが存在しなければさらなる幸福を手に入れていたかもしれない、ということを考慮してなお、あなたは存在する必要があるのか? という問いを発せられたときには答えに屈するしかなく、つまりは、存在の理由を他に求めることなど無意味だということだ。