言葉と共同体
はてなダイアリーキーワード「日本人」についての議論があった。その議論の内容や経緯はここでは置く。「日本人」の定義の中に「日本語を母語にするもの」という定義があって、そのことも議論を呼んでいたようだ。
ここからはその議論とはほとんど関係のない妄想である。
母語とは認識・思考・表現のための本質的な道具である。認識・思考・表現は言葉(母語)によって支えられ、同時に制限される。同じ母語のものは共通の思考を持つ、といえば過言か。こう言い換えよう。同じ母語のものは認識・思考・表現などに対して、共通の下地を持つ。
言葉の定義が曖昧であれば、思考への規制は緩やかであるが思考自体もぼやける。定義がはっきりしていれば、言葉は鋭く、有効に使えるようになり、同時に規制もきつくなる。
はてなダイアリーのキーワードは共通空間にある。大勢の利用者がいるにもかかわらず、一つしか定義できない(「別定義」は別のものに関する定義であって同じものに対する別のやり方での定義ではない)。
はてなダイアリーのキーワードは、はてなダイアリーの利用者の日記に強制的に割り込んでくる。それは「日記記述者はこの言葉をこんな意味で使っていますよ」といった「錯覚」を与える。だが、これは実は錯覚ではない。なぜなら、キーワードの定義は、はてなダイアリーの利用者であれば誰でも編集可能だからだ。つまり、気に入らなければ自分が気に入るように編集すればよい。キーワードを編集しない人は、理由はどうあれそのキーワードの定義を受け入れているとみなされても仕方がない構造になっているといえよう。
はてな内で定義されていない言葉は、言語としてのそれ以上の鋭さを持ってはいない。定義された言葉は、定義されていない言葉よりはっきりとした輪郭を持つ。はてなとしての輪郭。
何人かの極端な人がいて、キーワードの定義に関して時に議論が起こる。議論とはつまり、共通の認識を作り上げていこうとする作業だ。こうして議論され定義された言葉は、議論されない言葉以上に、はてなダイアリー利用者全体の共通認識として存在する。言葉として鋭くなると同時に思考に対する規制は強くなる。
キーワードという道具を利用して記述する内容は、日記というパーソナルな部分に密接に関係した文章である。自分を定義する作業、とも言えよう。自分を定義するために共同体で定義された言葉を使う、ということ。
言及やトラックバックも一体化を進める上で有用な道具だろう。
言葉に対して同じ認識を持った、同じ思考を支える道具を持った、密接な共同体。
我々ははてなダイアリーを利用し、知らず知らずのうちにキーワードの呪縛に絡めとられて行く。言葉は共同体のメンバーによって定義され、我々はメンバーの定義した意味で、自分を定義する。あるいは、他のメンバーを規定しなおすために、キーワードの定義を書き直す。
そこに出来上がるのは「はてな」という巨大な認識・思考・表現、つまり人格なのだろうか*1。