説明にとらわれる

 たとえば東洋的であったりとか、日本的であった場合、あるいは「西洋的」でなかった場合、それを成した人が、たまたま日本人であった場合、「日本人だから」などという修飾句で飾ってしまう事がある。(男だから、とか、エンジニアだから、とか、そういうのもあり)。

 発想法の一つとして「あるものを取り除く」という手法がある。まったくの白紙よりも、何かが書いてある紙の方が、人は何かを想像しやすい。日本的、あるいは東洋的、男性的、都会的、であるがゆえに、という線を引いた方が、今までになかった発想が出てくることがあるだろう。そしてそれがうまく行くこともある。日本人だから、というくくりでそれまでに全く関係の無かった世界に歌舞伎の何かを取り入れて、それがうまく行くこともある。

 それらが、けれども所詮は、「説明」でしかなく、「原理」ではない。原理は、確かに未来を予言する。説明は事実を理解するための道具でしかない。事実の後に生み出されるものだ。あなたの過去を説明できる占い師が、あなたの未来を予言できるとは限らない。それと同じように、あなたのしたことを「〜的である」と上手く説明した言葉が、果たしてあなたの未来をどこまで予言できるか?説明と原理は、似て非なるものなのだ。

 そしてまた、たとえ説明によって予言がなされたとしても、あなたがそれに縛られるいわれは何もない。